
書と篆刻

「ことばと書」
「書は文字を素材とした造形芸術である」「書は読めなくても見て感じるだけでいい」等々、書についての考えは人により千差万別、いろいろな考えがあってよいし、また当然ともいえる。書展においては尚更表現効果のみの評価しかされないのが現状のようであるが、果たして書はそれでよいのかいつも悩むところである。
書は好きだが書家の書は嫌いという人も大勢おられるのではないか。書家といわれる人の書にそのような人達の嫌う何かが含まれているのではないか、あるいは足りないのか。世の中に迎合する必要などないが、真摯に耳を傾ける必要もあるような気がする。
文字を書くということは美的表現だけでは完全とはいえないのではないか、忘れてはならない何かが存在するのではないか。その歳になり今更お前はまだそんなバカなことを考えているのかと一笑に付されるのがオチかもしれない。そんなことを考える暇があったら筆を持ってただ書いていればいいんだと。でも、やはり書に携わる者は常に「書とは何ぞや」ということを忘れてはならないと思う。書に鍛錬は絶対不可欠、だが鍛錬だけでは不十分ではないのか。
別に読めなくても、文字を書かなくてもアートとしてはすばらしいと思う。ただ書としてはどうかという疑問はどうしても拭いきれない。書を叫ぶならばせめて文字を書かなくてはいけないと思う。できるならば、書はやはり単なる文字ではなくことばとして書きたい。読める読めないではなく書者は詩を読んで書く、歌を口ずさんで書く、文字ではなくことばとして書くかどうかである。それによって書かれたものに大きな違いが生じてくる。
書はことばとして心を込めて美的に書きたい。そうでなければ自分自身も感激して書くことはできないし、ましてや他人を感動させることなどできるはずもない。生きたことばを書かなければ赤い血の出るような生きた書にはならない。
「書はことばを借りた心の絵」「書はことばの写真」、こんな独り言をブツブツ言いながら一人果てもなく書という泥沼を彷徨い続けている。

撮影 桜井ただひさ